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2012年10月 1日 (月)

女子留学生

鹿鳴館の花、山川捨松と一緒に北海道開拓使の命を受けアメリカに留学したのが吉益亮子(14歳)、上田貞子(14歳)、永井繁子(8歳)、津田梅子(7歳)である。

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船が出る横浜港では、見送りに来ていた人々が、梅子の姿を見て「あんないたいけな娘をアメリカにやるなんて。母親の心はまるで鬼ではなかろうか」などと囁き合っていたと言われている。また、当時のワシントン弁務公使であった森有礼は、5人の少女を迎えたとき、梅子を見て「どうすればいいんだ。こんな幼い子をよこして」と悲鳴を上げたと伝えられている。

吉益亮子、上田貞子は病気などのため途中帰国したが、梅子は滞在を1年延期し、その後、計11年間のアメリカ生活を終え1882年の11月帰国した。しかし、開拓使は資産払い下げにまつわる不正スキャンダルを起こし、解散してしまっていた。それにもかかわらず、1900年、梅子35歳の時、津田塾大学の前身である、女子英学塾が創立し、私立学校令に基づき正式に認可を受けた。
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帰国後の梅子は和服を通したようだが、彼女はコルセットについて次のように語っている。「日本の着物にはよくない点もいろいろあるが、アメリカ人がきついコルセットでからだをしめつけることに比べたら、その半分も煩わしくなく、滑稽でもないし、全体として優美で気が利いている。」梅子はコルセットに少女時代から慣れ親しんだ筈だが、それでもコルセットのきつい締め付けには強い忍耐心が必要であったようだ。

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